京都に空港をつくろう
【予告】本編はなかなか始まりません。
あなたは、考えたことがないだろうか。
なぜ、京都には、空港がないのか?
京都市は人口147万人(2015年)を有する大都市である。そんな都市(やその近郊)に、空港がないのである。これは大きな問題と言わざるを得ない。
………これだけでは、神奈川県や埼玉県などの同じく「空港のない都市」からの反感を買うだろう。
私は「京都は日本有数の観光地であり、流行り病の出現する前には、国内外から多数の観光客が訪れていた」と反論するが、神奈川県には箱根や江の島といった観光地があるじゃないか、と再反論を受けることだろう。
一大学生が書いたネタ記事でも、さすがにそれは想定内である。日本航空のサイト(末尾にURL記載)によれば、神奈川県(羽田空港まで24分)や埼玉県(同1時間2分)に比べて京都府は最寄りの空港への所要時間が長い(伊丹空港まで1時間3分)のだ。京都は、神奈川県や埼玉県より空港アクセスが悪いのだ。
これでも納得しない者がいるかもしれない。神奈川はともかく、埼玉なんて1分差じゃないか、と。しかし、埼玉県の最寄り空港は羽田空港(東京国際空港)。言わずと知れた日本最大の空港である。それに対して、京都の最寄り空港は伊丹空港(大阪国際空港)。現在は国際空港の名に反し国内線のみの運航であるほか、周辺住民との取り決めで、21時以降の離着陸が原則禁止されている。国際線やLCCを利用する旅客は、大阪湾の南に浮かぶ関西国際空港を利用しなくてはならない。
2007年に観光立国推進基本法が制定されて以来、日本は訪日外国人観光客の増加に力を入れてきたこと。そして、島国である日本では、観光に訪れる外国人のほとんどは、航空機を利用してやってくること。
これらは、京都に向かう多くの観光客が、関西国際空港という遠く離れた空港からの移動を強いられていることを示している。関西国際空港では、人工島に作られた空港故に起こる地盤沈下も大きな問題である。
それだけではない。現在品川~名古屋で建設と対立が同時に進んでいるリニア中央新幹線は、次なる延伸区間である名古屋~大阪のルート選定が進められている。その中には京都市内を経由するルート案が存在しているが、これは経済効果こそ高いものの、建設費・所要時間の面で他のルート案に劣っており、京都市内への駅の建設は見込めない。
日本の大動脈である東海道新幹線の「都市間連絡」という機能が中央新幹線に移った時、京都の街は明治天皇の東京奠都に並ぶ衰退を見せる可能性さえ考えられる。
以上のことを踏まえると、京都に国際線が発着可能な空港を建設するメリットは大きいと言える。かつて日本では「一県一空港」の掛け声のもと空港の建設が進められ、赤字の地方空港が量産されたが、京都では利用低迷の心配はないだろう。
それでは、京都に近畿第4の空港を作ろう。
私の脳内で行われた検討会議の結果、候補地が4つ選定された。なお、括弧内は主要な滑走路の方向である。
空港のスペックは、3000m以上の長さを持つ滑走路2本に加え並行誘導路を持つものとし、滑走路は離陸専用と着陸専用に分けた運用を前提とする。
なお、以下の図において青はスポット(搭乗口・駐機場)を示す。
一つ目の案、京都市街地。
二条城の北、堀川通の西側に建設する案。A滑走路(西側)が3000m、B滑走路(東側)が3500mほどの長さを持ち、ほとんどの旅客機が離着陸可能である。北野天満宮はターミナルビルの中で受験生を支え続けることができるが、大徳寺は滑走路の間に存在することになってしまった。最寄り駅は嵐電北野白梅町駅とJR山陰本線(嵯峨野線)の円町駅。嵐電北野線は、空港と嵐山を直結する路線として大きく成長するだろうが、嵐山に限らず京都市街地の観光地全てに多大な騒音被害をもたらすことになる。
[良い点]
- アクセスが良い
[悪い点]
これでは、経済効果以上の経済損失が発生することは間違いない。
こちらは土地に余裕があり、比較的大きなターミナルビルの設置が可能であると考えられる。滑走路も最長4000m程度と、関西国際空港を貨物とLCC専用に追いやるくらいの機能は持ち合わせていそうだ。最寄り駅は近鉄京都線の向島駅。線路はターミナルビルと並行しており、京都国際空港南ウイング駅(仮称)の設置も望まれそうだ。また、京滋バイパスを地下化すれば、高速道路でのアクセスも可能である。
北側の離着陸経路は洛西ニュータウン上空に設定されるため、京都市内の観光地への騒音被害は(少なくとも京都市街地案よりは)小さいだろう。しかし、洛西ニュータウンの大部分が属する京都市西京区洛西支所管内の人口は52,242人(2015年)。これだけの人数が騒音被害を訴えたら、計画は一筋縄でいかないだろう。さらに南側の離着陸経路上にある宇治市や城陽市には特大の騒音被害が降り注ぐことになる。結局誰かが被害者にならなければならない。
ところで、ここは干拓地である。地盤が問題視される関西国際空港の代替の立地が、干拓地である。そう、地盤の問題が解消していない。本末転倒である。
そもそも、巨椋池干拓地は久御山町の都市計画地図では市街化調整区域になっている。
[良い点]
- アクセスがまあまあ良い
- 広い土地が確保できる
[悪い点]
これでは、令和の成田闘争が発生してしまう。
土地は周辺住民との交渉の末、なんとか確保したということにしよう。最寄り駅はJR山陰本線(嵯峨野線)の千代川駅。京都縦貫道の千代川ICも近く、車でのアクセスも可能である。しかし、この案はいろいろ問題がある。
第一に、見ての通りの地形である。周囲は山。北も南も、西も東も山である。亀岡市や京都市西京区には山を切り開いて作ったニュータウンが存在していることを考えると、その上を低高度で通過するのは大変危険である。ブータン唯一の国際空港であるパロ空港に並ぶ着陸が難しい空港となるに違いない。
第二に、観光資源の喪失である。紅葉の名所である保津峡の上空を降下してくるとなれば、保津川下りやトロッコ列車も落ち着いて楽しめない。大阪梅田は賑やかな空間であるから飛行機が通過してもさほど問題にならないが、京都嵐山は本来、賑やかな空間であるべきではないだろう。大問題である。
第三に、生態系の破壊である。亀岡市には、国の天然記念物に指定されている、絶滅危惧種のアユモドキという魚が生息している。現在では、アユモドキは桂川とその支流の他、岡山県の旭川・吉井川に生息するのみである。そんな中で空港建設など行えば、絶滅が一気に近づいてしまうに違いない。実際、この案では、空港敷地内に桂川の支流が存在している。密漁防止の観点から詳細な生息地は明かされていないものの、ここも「かめおかの環境のシンボル」(亀岡市ホームページ)の生息地である可能性は高い。
亀岡駅の北側に建設された「京都スタジアム」でさえ、地元の保護活動団体や日本魚類学会から、アユモドキの保護のために建設計画の白紙撤回を求める要望書が提出されているというのに、こんな空港が建設できるわけがないのである。
[良い点]
- 中丹地域(福知山・綾部など)からのアクセスが良い
[悪い点]
盆地は、空港建設には向かないのだ。
四番目の案。本当は案は3つの予定だったが、航空写真を眺めていた際にいい感じの空間を見つけたので案が追加されることとなった。
この案では建設地が滋賀県内になるが、関西国際空港に比べれば圧倒的に京都に近いという点では差はない。それほど問題はないだろう。
この案は、言うまでもなく問題がありすぎる。もうここで説明するのも面倒であるから、列挙するにとどめよう。
[良い点]
多分ない。
[悪い点]
盆地は、空港建設には向かないのだ(2回目)。
最後にまとめ。
ここまで4つの案を検討してきたが、どれも致命的な欠陥を抱えた案ばかりであった。周辺住民を無視するという、現代の建設事業ではあり得ない手段を取ったにも関わらず、問題点が尽きないのであった。
結論。京都(とその近辺)に空港はつくれない。
私は、大人しく伊丹空港・神戸空港・関西国際空港を使おうと思う。
【参考資料】
[1] 「空港のない県」は実は空港から近い?意外なアクセス方法と旅の魅力を発掘 - OnTrip JAL
https://ontrip.jal.co.jp/_ct/17359528
【後編】エクストリーム帰寮2020(2020.11.28)
2020年11月28日、私は熊野寮祭の企画「エクストリーム帰寮」に参加した。
前編→ https://skrgwblog.hatenablog.com/entry/2020/12/05/071030
私は行きとは道が違うと分かりつつも、国道162号を進むことに決めた。見えていたトンネルは中川トンネル。京北トンネルのような曲線主体の線形で、先が見えない。おまけに朝が近づいているためか交通量も増えていて、端の狭く圧迫感のある歩道を歩くしかない。幸いにも長さは京北トンネルよりは短く、それほど苦痛には感じなかったが、今私が地図を見た上でルートを決めるとすれば、旧道を選択しただろう。
旧道の途中には中川地区の集落が存在するため、旧道にもある程度の幅員がある。交通量も多くはなく、安全上の問題もない。そもそも、ここまでずっと並行してきたバス路線も、集落の乗客を拾うために旧道を経由するようだ。
中川トンネルを抜けると、空が薄明るくなっていた。時刻は6時を回っていた。朝だ。
Twitterを開くと、普段通りの「朝」を迎えている人々の姿があった。私は彼らが寝てから起きるまで、ずっと歩いていたことになる。そういう企画だとは分かっているものの、少し寂しさというか、自分は何をしているのだろうかと考えてしまいそうだ。
またトンネルが見えた。杉の里トンネルというようだ。今度は入る前から出口が見えている。道路の右側からは旧道が分岐しており、「車両進入禁止」と書かれた柵が進入を拒んでいる。トンネルの開通によって廃道になったのだろう。
トンネルを抜けるとそこには橋があり、川を跨いでいる。
私はこれまで大半の時間を川と並行して歩いてきた。しかし、川の流れを視認したのはこれが初めてであった。私は朝の到来に感動を覚えた。
その後道は狭くなった。さすが国道というだけあって、交通量は私の横を追い越していく車も対向車線にはみ出せないほどになってきた。横を減速して通っていき、抜き去った後は邪魔だと言わんばかりに急加速していく。私は心細さ、申し訳なさを感じずにはいられなかった。
そこを大きな車が横を抜き去っていく。エンジン音に少し聞き覚えを感じた。すると、白い車体に青のライン。JRバスだった。行き先には「四条大宮・京都駅」の文字。私の目指す市街地が、だんだんと近づいているような気がした。
狭い道を、居場所のなさを感じながら歩いていく。そこに、前方に青く光るものを見た。片側交互通行だ。早い段階からそのことは道路上で告知されていたが、もう忘れてしまた頃だった。車なら数十分なのかもしれないが、私はこの案内を2時間ほど前に見た覚えがあった。
片側交互通行で、工事の作業員らしき人も見当たらない。私は車の途切れるタイミングを見て、駆け足で通り抜けた。
そこから5分ほどのところに、開けた土地があった。観光客向けの駐車場だ。風流のある茶屋が軒を連ねている。私は高山寺の門の前でしばらく休憩を取ることにした。
寺院の関係者だろうか、老人が車でやってきて、門の辺りの箱に何か鍵らしきものを入れて去っていった。
老人は、朝7時に道端に座ってカロリーメイトを食べる私を見て、何を思っただろうか。
食欲はなく、カロリーメイトを1本食べたところで、空腹なのにもう食べたくないといった感覚に陥った。無理に食べる必要もないと思った私は、食べるのはそれきりにして水分を補給した。次のバスが市街地の方向へと坂を下って行った。
歩き出した私。足取りが明らかに重くなっているのを感じた。休憩を長くとると筋肉が固まってしまうというのは知っていたが、10分程度でもそうなるとは思いもしなかった。まだゴールまでは距離がある。ペースだけは維持しようとしたが、体力の消耗は避けられなかった。
そこは栂ノ尾や高雄という場所だった。私は地名こそ聞き覚えがあったが、何がある場所かは全く知らなかった。見る限り、紅葉の名所なのだろう。もっとも、朝7時に紅葉を見に来る物好きは、私のほかにいなかったが。
観光客向けの地図でコースを確認すると、車両の進入が禁止されているものの、国道をショートカットできる道があると分かった。歩道がなく交通量の多い道に閉塞感を感じていた私には、朗報でしかなかった。
分岐を左に進み、国道を外れる。道は一気に狭くなり、上り坂になった。国道は勾配の緩和のために迂回しているようだ。トラックのエンジンが唸りを上げる音が聞こえてくる。鉄道や自動車ならともかく、徒歩なら急勾配など全くもって問題でない。
しばらく歩くと国道に戻ってくる。そして、そこには歩道があった。(すぐなくなってしまったが)
合流した時点で既に道は上り坂になっていた。峠越えのようだ。緩和されているとはいっても、なかなかの急勾配である。落ち葉を踏んで足を滑らせないように。
また聞き慣れたエンジン音。顔を上げると、今度はカラーリングも見慣れたものだった。
京都市バスの車両がやってきた。
私は慌ててスマートフォンを取り出し、ギリギリのところで、後ろ姿をカメラに収めた。
非日常から日常を目指して歩く私にとって、市街地の日常で見られるものがふと現れることは、精神面でも非常に助けになるものであった。
バスが通り過ぎたところで、私は再び分岐点に立った。いや、ほとんどの人には分岐点でないのかもしれないが、国道を外れ、脇道を行くショートカットを学んでしまった私には、左に分かれ、急な下り坂となっている道は大きな分岐点に見えた。
私は、速く山を下りたい、市街地に辿り着きたいという思いから、下り坂を進む衝動に駆られ、分岐側へと足を踏み入れた。
下り坂は、その衝動を止めさせない。足は止まるどころか、スピードを上げている。まあ、疲れで足があがらなくなっている現状では危険以外の何物でもないと感じ、すぐにスピードを緩めたが。
先には国道が見えた。ここも勾配緩和のために迂回しているようだった。私の判断は正しかったようだ。
斜面に張り付くような住宅を横目に見ながら、細い路地を歩く。横から車の音が近づいてくる。私は再び国道に戻ってきた。
高雄を過ぎると、梅ケ畑というところだった。しばらく歩くと両側に歩道が出現する。道を歩いていると、道のほうから市街地の接近を様々な形で知らせてくれる。高雄には行ったことがなく、具体的な光景の記憶に欠ける私にとっては非常に有難いものだった。
沿道にローソンがあった。歩道と敷地を仕切る縁石が座るのにちょうどよい高さで、私は吸い込まれるようにそこに腰を下ろしてしまった。
しかし栂ノ尾での記憶から、私は3分ほど休んだだけで立ち上がり、足を大きく動かしたのちに歩き出した。市街地は着実に近づいているが、市街地に入ることがゴールではないからだ。
小雨が降り出していたが、そんなことに構っている余裕はなかった。雨宿りもしたくない気分だった。
私はおそらく最後の下り坂を歩いていった。そして、福王子交差点が見えた。
福王子から先の区間は、バスは大人230円の均一運賃になる。ここからは「市街地」と呼んで差し支えないだろう。
山を上り下りしている時にはすれ違う人は皆無。梅ケ畑の住宅街に出てからも計数人程度だったから、私はいくら昨今の情勢を踏まえても、周囲に人がいないのに感染したりさせたりする訳がないということで、マスクを外していた。(というか、マスクをして長距離を歩き続けるほうが危険であるのは間違いない)
しかし市街地に差し掛かったところですれ違う歩行者の数も増え、私は車に乗っていた時以来マスクを着用した。普段の私は昨今の情勢上仕方がないとはいえ、この環境にうんざりし、”息苦しさ”を感じていたが、この時はマスクを着用するということが、まさに市街地に戻ってきた、ゴールが近づいているぞということを感じさせるような気分だった。もちろん呼吸のしやすさの面を考えると、そんな高揚している場合ではないのだが。
そして、朝8時半を過ぎたところで、私は5時間以上ひたすら辿ってきた国道162号を離れることになった。もはやここまで来ると、一種の愛着が湧いてきた。
福王子交差点を左折すると、仁和寺の前にやってきた。時刻は8時45分。9時からはここで、また別の熊野寮祭の企画が開催されるらしい。しかし私にはその気力など到底ない。階段数段さえ上るのを躊躇い、中を見ることさえしなかった。
私は仁和寺の先を斜めに横断し、バス停の椅子で一旦座って休んだのちに、嵐電北野線の妙心寺駅を通った。
私はTwitterで鉄道路線を利用して現在地や方角を把握する他の参加者を見ていたから、鉄道とはあまりにも無縁な私の帰寮において、初の鉄道路線が現れたことに喜びを感じていた。同時に、嵐山に観光に行った際に見た京紫色の車体の登場は、市街地に入ってもまだゴールが先であることを感じさせるものでもあった。そして、私はここで嵐電と交差したことで、大きな勘違いを犯すことになる。
嵐電北野線は、仁和寺の付近より東では、ほぼ東西に走る路線だ。だから、この路線と交差した私は、仁和寺の辺りで右に曲がったことも相俟って、自分が今、南に向かっていると勘違いしてしまった。
それが間違いであることは空を見上げて太陽の方角を確認すれば明らかなことなのだが、この時の私は体力を十分消耗しており、そんなことにさえ意識が向かないようになっていた。
そして、「熊野寮まであと直進するだけ」という事実に手を伸ばしたくなった私は、ちょうど差し掛かった馬代一条交差点の信号が赤になったのを見て、左折した。
そこから2分もしないところで、再び嵐電の踏切に差し掛かる。私は東に向かったところで踏切を渡ることにさすがに不審だと感づいて、空を見上げて方角を確認し、己の不注意を反省した。すぐに気が付けたからロスも少なく済んだが…。
結局、北野白梅町から西大路通を南下。円町から丸太町通に入ることになった。
あとは東へ進むだけ。まだ距離はあるが、ラストスパートに差し掛かったような気がしてしまった。
円町交差点を東方向に進むと、すぐに小さな上り坂が出現する。これまで山を上り下りしてきた私には、ほんの少しの苦労のはずだった。しかし、道を間違えたことの心労も重なった私の心身は、この上り坂で持つ力を使い切ってしまった。しかも、周囲には目新しい光景はない。自転車で何度も通った道だ。
極めつけは市バス93号系統・錦林車庫行きが横を走り去っていくのを見たことだろう。このバスに乗れば、ゴールまで数分なのだ。足はもう疲れ切っていた。
バス停の椅子にこまめに座りながら、少しずつ歩みを進めていく。堀川丸太町では椅子が隣接するスーパーの敷地内にあるため、屋根の下で、広い場所を使って休憩できた。
烏丸通、河原町通と、途中何度も座れる場所を見つけては座っていた。
そして、見慣れた光景だ。鴨川。
もう、あと少しだ。もう日は高く昇っている。
私は足の疲労に懸命に耐えつつ、最後の「あと少し」を歩き切った。
帰寮!
何とか無事に帰ってきた。主催者の方に帰寮を報告し、軽く会話した後は、帰宅。
神宮丸太町駅から出町柳駅までは、迷わず京阪電車のお世話になった。1駅、乗車時間1~2分で220円などという高額運賃は、今日は決して高いとは感じなかった。
持参した食料や水分はあまり消費しておらず、足りなくなることはなかった(むしろ大半を余らせてしまった)ので、結局、費用は往復の京阪電車440円だけという結果だった。いや、やっぱり1駅往復で440円は高いわ。
歩行距離は約38.2km、車を降りてからの所要時間は10時間11分という結果でした。
最後になりますが、主催してくださった方、ドライバーの方、応援の言葉をくださった方、そしてこの記事を最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。来年はもっと体力をつけて長距離にチャレンジします。
【前編】エクストリーム帰寮2020(2020.11.28)
2020年11月28日、私は熊野寮祭の企画「エクストリーム帰寮」に参加した。
ルールはかんたん. 車でどこかに拉致されて歩いて帰ってくるだけ. 財布なしスマホなし.
(京都大学生存同好会Twitter(@Saison_de_Kyoto)より引用)
まあ、そういう企画である。それ以上のルール説明は必要ないだろう。
補足しておくと、スマホなしというのは「地図を見ない」という意味であり、実際には安否確認用、そしてTwitter実況用としてほぼ全ての参加者が持参している。
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【予告】本編はなかなか始まりません。
2020年11月28日22時。エクストリーム帰寮の集合時間まであと1時間。
冬の到来を明確に感じながら、私はダイコクドラッグ百万遍店にいた。反射材を探し求めていたのだ。一応懐中電灯は持っていたが、電池が切れたら命に関わるという考えだった。
しかし、私は目的の品を購入することができなかった。仕方なく家に帰る。そして家に着き、準備を始める。大丈夫かな、何か代替になるものはないかなと思いながら、懐中電灯に手を伸ばす。すると、懐中電灯の横に、替えの電池があることに気が付いた。これで良いではないか。これから長距離の徒歩が待っているというのに、無駄に体力を消耗してしまった。
私の装備は以下の通り。
なぜ体温計があるのかというと、私はとある課外活動団体に所属しているのだが、対面での活動に参加するためには毎日検温し、そのデータを送信する必要があるからだ。万が一帰寮(私は寮外生なので、正確には帰宅)が遅くなっても会長に迷惑をかけないで済むように、という考えである。
そして、時計を見る。時刻は22時35分。23時の集合に間に合わない可能性、というよりは自転車を飛ばすことで体力を消費してしまう可能性を考慮して、私はICOCAカードを持った。出町柳駅から神宮丸太町駅まで、京阪電車を利用したのだ。
実際このおかげで、全く急がずとも余裕で間に合った。
熊野寮の建物に入るのは初めてだった。学生が集まり関わりあうことで楽しんでいるという、良い雰囲気が感じられた。京都大学の寮というとあまり良い話は聞かないが、たまに訪れる分にはとても良いところだと思った。学生に最低限の良識が備わっているからこそだろうか。
そんなことを考えていると、受付が始まった。20km、35km、できるだけ遠く…様々な距離が並ぶ。そんな中で、私の希望距離は30km。ぼっち参戦だ。友達がいないのではないと信じたい。
並んでいると、声をかけられた。私と同じ単独での参加者だった。何回生?という質問に対して1回生だと答えると、いつもの流れが始まる。もう何度目か。学校で授業受けたことないんよな?友達できんやろ?サークルとか…
はい。おっしゃる通りです。
しかし、オンライン授業下で活発に交流を深めている人々、ひいては(三次元の)彼氏彼女を作っている人々も多数いるのだ。インスタグラムで少し検索してみれば、そういった類の投稿が多く見受けられる。なんと恐ろしいことか。彼らのコミュ力のほんの少しだけでも分けてもらいたいものである。
本題からそれてしまった。予告を理解した上でこれを読んでいる読者もそろそろ飽きてきた頃だろうから、ここから出発までは省略することにしよう。
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私はかなり早い段階で出発することができた。1人というのが車の空いた席を埋めるのにちょうど良かったようだ。ドライバーは有名(?)な方だったそうだが、あいにく車内でその事実を知ることはなかった。
車は丸太町通を西へ。これ以上の情報はない。帰り道が分からないからこそ楽しい、というのが私の考えであったからだ。
気づけば体が座席に押し付けられる感覚を得た。山道を走っていた。
山道を快走する車の前面展望が楽しめるのは、なかなかないことである。私はさっきまでの考えをほぼ忘れて、道路の案内標識が見えた時以外はその景色を楽しんでいた。
0時50分。私は車を降りた。車が走り去ると、辺りの光は私の懐中電灯と、月明かりだけになった。真っ先に、月ってけっこう明るいんだ、と感じた。都市で暮らしていると、月明かりが照らすものは皆無だからだ。
そして、特に考えることもなく、車が走り去った方向と反対に向かって歩き出す。これは人間の性であろう。すぐに道路脇に凍結防止剤が置かれているのを見つけた。そこには「京都市」の文字。ここは京都市のようだ。京都市は南北に広く、市街地の北には広大な山が広がっている。おそらくその山中に降ろされたのだろう。
ひとまずは一本道なのだが、懐中電灯で道を照らすと、周囲の山から「ガサガサッ」という音がする。野生動物だ。京都市やその周辺なら、鹿だろう。
鹿は人間を襲うことはほぼない。頭ではそう分かっているのだが、夜道に一人、明かりも少ない中ではなんとなく恐怖を感じる。私は道の真ん中を歩いて行く。
30分くらいは下り坂が続いた。分かれ道に出たが、片方は寺院への入口といった感じで、また上り坂でもあった。ここまで下ってきたことを考えるとそちらに行くのが賢明でないことは容易に判断できた。分かれ道には狸がいた。
そこから5分もしないところで、国道477号に出た。そこに「京都一周トレイル」の案内を発見。そこには、「京北」の文字。ここは京都市右京区、旧京北町エリアのようだ。国道に出たところでも同様に進むべき方向は想像がついたが、ここで私は道端にバス停の看板が立っているのを見つけ、情報収集に向かった。山国御陵前バス停。京北ふるさとバス。行き先や途中の停留所を見ても知っている地名がなく、帰り道の様相は想像できなかった。
歩き出そうとしたとき、ピーッといった高い音が響き、鹿が私がさっきまで歩いていた道路を駆けていった。鳴き声だ。鹿の鳴き声を生で聞いたのは、初めてかもしれない。
少し驚きながらもひとまず進むべき道らしき方を歩いて行く。見えたのは青看板らしきもの。初めての道路情報だ。
反対方向に分岐すると、大原や鞍馬といった、京都の市街地の真北に位置する観光地に着くようだ。ここは京北町であるから、すなわち私は今南に歩いている。これで正解だ。目的地に近づいていると分かって道を進むのは、そうでない時よりも精神的に非常に楽なものだ。
そこから1時間。国道に出て両側が田んぼや畑になってからも、周囲には鹿が多かった。さすがに慣れてきたため、気配を消して近づき、パッと懐中電灯を付けることで慌てて鹿が逃げ出すのを見て楽しむような余裕も生まれた。
時刻は2時20分を回ったところ。進行方向の青看板を初めて発見した。
「五条天神川」の文字。
早くもゴールが見えたことに心が躍る。もちろん、距離は相当なものなのだろうが…。
車通りもほぼゼロ。この看板を発見した時点で開始から1時間半が経過しているが、見かけた車は計5台程度だ。聞こえる音は、川のせせらぎと、鹿よけの電線がバチバチと音を立てるくらい。時々鹿の鳴き声が響き渡る。
田舎の深夜というもの自体、私には初めての体験だった。出身は田舎ではあるけれど、家の周りは平地で、蛙の大合唱が喧しい夏の夜はあれど、鹿や猪が屯する秋の夜はなかった。そもそも高校生までの生活では、深夜に外出すること自体ほとんど許されない。
私は野生動物が暮らす姿に自然を感じた。もっとも、道路が整備され畑には電線が張られたこの状況は、動物にとっての本来の「自然」とは遠く離れているのだろうが。
しばらくすると道が木に囲まれるようになる。電波の状態も悪くなり、Twitterで他の参加者の帰路の様子を見て楽しむといったことが難しくなってくる。私はただ、懐中電灯の照らすわずかな地面を注視しながら歩いて行くことしかできなかった。
上り坂に差し掛かる。道幅が狭くなるを示した看板が設置されていた。まだ序盤、体力は十分。20分ほどの緩やかな上り坂を過ぎると、文明の灯りが見えた。交差点のようだ。
ここで左折する。京北合同庁舎前というバス停があった。そして、ここまでの京北ふるさとバスの看板と同時に、西日本JRバスの看板も立っていた。私はバス停のベンチに腰掛けた。水分補給だ。
JRバスの方のバス停看板には、丁寧に路線図がついていた。
この道を進めば確実に市街地に繋がる。そう分かったが、目的地の熊野寮まではバス停をいくつ通ることか。市街地に入れば、市バスのバス停も多く存在することになる。
そんなことを考えながら歩みを進めていると、距離を示した看板を発見した。五条天神川まで28km。時刻は既に3時を回っており、日常生活での歩行量を超えた頃だ。しかし、看板は無情にも28kmの文字を突き付けてくる。単純計算でもあと7時間。
しかし、そんなことに気分を沈ませていても仕方がない。私は歩き出した。
そこから25分ほど歩いたところ。短いトンネルをひとつ抜けたところで、白い光が目に入る。京北トンネルだ。銘板によると、2012年に完成した比較的新しいトンネルだそうだ。トンネル照明にはオレンジ色のナトリウムランプではなく、白色のLEDが使われている。
長さは2312m。トンネル内の照明に必要な電力は湧水を利用した水力発電で賄っているらしい。
このトンネルのおかげで、京北町周山地区と京都市街地の行き来は格段に便利になったことだろう。歩いて通る私としても、暗い峠道よりは何倍もいい。
そんな気持ちで入ったトンネルも、中はずっと上り坂。しかも曲線主体で、出口が全く見えない。車が通ると耳をつんざくような轟音が響く。何より、トンネル内には電波が届かない。2kmを超えるトンネルは徒歩で通るには30分以上かかるもので、肉体的にも精神的にもかなりの負担だった。
私はちょうど中間あたりで、歩道に座ってカロリーメイトを1本食べた。正直、それほどの感情はなかった。食べ終わって水分補給をすると、すぐに歩き出した。早く抜け出したかった。
中は空気が籠っていて寒さを感じなかったのが唯一の良い点であった。
1台の車に抜かれた。轟音は、私の横を通り過ぎたあと10秒ほどで消えていった。非常口の表示がそこらにあり、着実に出口が近づいていることは認識できていた。しかし、数字で示されるより、視覚以外の感覚に訴えてくる方が実感が湧く気がした。
トンネルを出た瞬間、一気に冷たい風が襲ってきた。私はあまり独り言を言う質ではないのだが、この時はふと、声が出てしまった。
トンネルの出口からは緩やかな下り坂になっている。京北トンネルが開通してからは、この峠の最高地点はおそらくここだろう。
京北トンネルを抜けたところにはバス停があった。ひとつ前のバス停は40分くらい前に通った記憶がある。写真を確認するとその通りだった。路線図では同じ長さで書かれているが、トンネルを挟む区間はバス停1つ分が非常に長いのだ。そんなことを考えていると、ナトリウムランプの灯りが見えた。またトンネル。また長い区間。
次のトンネルは笠トンネル。京北トンネルと違って古めかしい雰囲気である。1200mほどのトンネルだが、ずっと直線で、それまでの緩やかな下り坂が続く。歩道は狭く圧迫感があったため、車道の端を歩くことにした。後ろから車が来ればすぐに分かるため、安全上の問題もない。
トンネル内には補強工事の跡のようなものが多く見られた。湧水がトンネル内に漏れてきているところもあった。地上では川と並行して走る区間が大半を占める道路であり、水源や地下水脈も多いのだろう。
出口が最初から見えている笠トンネルは、京北トンネルに比べれば非常に気が楽だった。実際に長さは半分ほどである。
トンネルを抜ける。今度は目の前に集落が広がった。小野郷というところらしい。
時刻は午前5時になろうとしていた。京北合同庁舎前以来の距離標識。数字が減っているのが最大の実感だ。暗い夜道には終わりが見えず、体力以上に精神が削がれていく。そういった中で、まだまだ遠いながらも終わりを見せてくれる標識は非常に有難いものだ。
小野郷の集落を過ぎると、再び周囲は山深くなってくる。片側一車線は維持されているものの、懐中電灯を切ってしまうと明かりは皆無。カーブが続く。見通しが悪く、「事故多発」の看板も設置されている。朝が近づいていることもあり、車通りも増えてきた。もっとも、それでも1分に1台程度だが。
こんな道はふつう、徒歩で通るものではない。私としては肩身が狭かった。車が近づいたら手に合わせて懐中電灯を振って、存在を知らせた。
30分ほど行ったところで、交差点に出た。ちょうど来たトラックが左に曲がっていく。ここまではほとんど、分岐する道は狭く、車がほとんど通らないような道ばかりであった。私は驚いた。そして、国道162号を直進した先にはトンネルが見えた。
行きにこのトンネルは通った覚えはない。外を見なくてもトンネルを通ったことは音だけで感知できるから、それは分かっていた。しかし、行きにはセンターラインもないワインディングロードを通っているはずだ。ここを左に行ったら、その道に繋がっているのだろうか?
私は少し迷った。ここを左に行けば行きと同じ道で、最短で帰れるかもしれない。しかし、私は行きと違う道であることを覚悟したうえで国道162号を進むことに決めた。トンネルは上り坂を回避できるかもしれない、という望みもあった。
何よりまだ空は暗い。時刻は5時49分。冬至まで1ヶ月を切った11月最後の夜。狭隘なワインディングロードは危険という判断だ。行きに『頭文字D』で見たような車が峠の中腹に停まっていたのも判断根拠になった。
スタートから 4時間59分
後編→ https://skrgwblog.hatenablog.com/entry/2020/12/05/101432
雲海の見える山・立雲峡へ(2020.11.18~19)
2020年11月18日夜、私はJR二条駅のホームで列車を待っていた。日を跨ぐ旅行は夏休み以来である。それだけで、私の気分を高揚させるには充分だった。
同行者は2人、計3人の小旅行。夜の道を単独で歩き、山を単独で登るのは危険であるが、昨今の情勢を鑑みると大人数というのも好ましくない。バランスを考慮した結果がこうである。
私は、いや、我々は、と呼称する方が適切だろう。我々は、二条駅で列車の到着を待っていた。乗車する列車は、特急きのさき19号福知山行き。朝来市の中心駅である和田山まで列車に乗ってから、徒歩で立雲峡まで向かうというのが今回の行程である。
ところで、「立雲峡」という地名を知らないという人もいるだろうから、補足をしておく。一時期話題になった天空の城こと「竹田城跡」を望める、山の上の展望台のような場所である。竹田城跡とは、川を跨いだ反対側にある。
列車に乗り込む。空席を探している間に扉が閉まり、列車が動き出す。
しばらくして空席を見つけ、通路を挟んで横に並んで着席する。3人以上のグループでは席を向かい合わせにするというのが通例だが、現在では、特急列車に関しては座席転換を控えるようアナウンスがある。これも昨今の情勢を鑑みてのことだ。そして何より、向かい合わせにするにはテーブルが使えないという致命的な欠点がある。
保津川の紅葉、南丹の田園風景、京丹波の山々といった美しい車窓が窓の外に広がっているのだろうが、夜になればそれは真っ黒な中を時々人工光が駆け抜けるだけの世界である。見えるものといえば、せいぜい窓に反射した私の顔だろうか。
福知山までは特急列車で約1時間。ゆっくり寛いでいると、あっという間に着いてしまう。私は青春18きっぷで旅行することが多い人間ということもあって、1時間の乗車というのがむしろ寂しく感じてしまう。
そうして綾部を過ぎ、福知山駅に到着した。ここで我々は、普通列車豊岡行きに乗り換える。山陰本線和田山方面の最終列車だ。
列車のドアはボタンで開閉する方式であった。この方式は「半自動ドア」と呼ばれる。車内の温度を保つことができるため、発車を待つ乗客が暑い思いをしなくて済むだけでなく、省エネ効果も期待される。そのため現在では全国の地方路線はおろか、大都市圏でも見られる方式だ。
しかしこの方式を見た私は、驚いた。それは、やはり昨今の情勢の問題である。開閉ボタンは多くの人が触れる場所であり、また半自動ドア扱いでは換気が不十分になりやすいこともあって、現在は半自動ドア扱いを一時中止している路線が多いのだ。
そんな余談はさておき、列車は豊岡に向けて出発する。我々の降車地である和田山は、所定ならば40分弱の乗車時間である。
最初の停車駅、上川口駅に到着する。ここでは対向列車との行き違いを行うのだが、その対向列車が野生の鹿と衝突した影響で遅延しているとのことだった。早く家に帰りたい乗客からすれば良い迷惑だが、我々は明朝まで有り余るほどの時間があるため、何ら問題ない。
10分から15分ほどの停車ののち、対向列車が到着し、我々の乗る列車も発車した。そして、下夜久野(しもやくの)、上夜久野(かみやくの)という珍しい駅名を持つ2駅を過ぎると、府県境を越え、兵庫県へ。ここは朝来市である。
そして、兵庫県に入って2つめの駅、和田山駅に到着。我々の他にも下車する人がいた。地元の方だろうか。列車はすぐに発車し、暗闇の中にモーター音を響かせながら、テールライトを2つ、こちらに向けていった。
改札を出る。和田山駅は朝来市の中心駅だが、駅構内はこじんまりとしていた。駅前も、そろそろ日付が変わろうかという時間帯にはタクシーすら停まっていなかった。
ここからは徒歩。所要時間は2時間ほど。距離的にはそこまでの距離ではないが、時間が有り余っていることもあり、終始スローペースだった。国道から離れてからは険しい上り坂になりながらも、何とか歩いて行った。周りに人工光が少ないため星空がたいへん美しいのだが、あいにく雲が多く星座全体が綺麗に見られる時間はそう長くない。そして、カメラの技術があまりにも不足していたことで、シャッターを切ることすらできなかった。我ながら、ひどいもんだ。
そして、午前2時半を回った頃、我々は立雲峡の入り口にある駐車場、すなわち登山道の入り口にやってきた。ここからは徒歩で向かう、のだが、そこにはある看板があった。
画像の通りである。下調べが不足していたようだ。
しかし、雲海が出るのは朝6時頃からであるため、全く心配ない。ここで2時間、暇を潰すだけである。そもそも、看板の通り、深夜の登山道は危険である。
2時間後まで、特に書き記す内容もないため省略。
ここで、天候の状況を確認しておこう。
天気は晴れ、雲量は4程度。
最低気温は10度を超える暖かさで、前日との寒暖差は6度。
風は最大約3m/s。
状況としては、実は芳しくない。
しかし、雲海は自然現象。どうなるかは分からない。
4時半を前にして、係員と思しき人が2人やってきた。我々をはじめとして10人ほどが登山口の入口にいた。係員の老爺は「こんな早くから登って何するの」と、半ば呆れていた。我々がこんな時間に来なければ、彼らもこんな時間から働かなくて済むのだ。
さて、4時半。登山道へと向かう。足はここまでの行程もあって、疲労が出始めている。山道特有の階段、1段の長さが微妙で1歩で行くか2歩で行くか迷う。
正直、天候が厳しいことは分かっていた。それでも、前を行く若者の集団について、懐中電灯で足元を照らしながら、ゆっくりと山を登っていく。
登ること、30分。立雲峡の山の上、第一展望台に到着。まだ夜明け前で、竹田城跡のある方向には何も見えない。
夜明けまでの待ち時間、少しでも体を休めようと腰を下ろすと、地面が濡れていた。そうか、雲ができるにはこうならなければならないのか。
夜明けまではただの耐久戦。だんだん人が増える。耐久戦の詳細は特に語る必要もあるまい。夜明けまでスキップすることにしよう。
さあ、夜が明けました!
雲一つありません!下界の景色が良く見えます!
…悲しい。全く雲が無い。雲海を楽しみに来た人々のほとんどは、たまにはカメラを向けつつも、基本は同行者との会話を楽しんでいる。
登山道の入口にいた係員の老爺曰く「6時に出てないなら出ない」とのことであった。
さて、これなら早々と引き揚げようか。そう思ったが、私は同行者に頼み、もう数十分だけ滞在することにした。
私の目的は、播但線の列車を撮影すること。播但線は、姫路と和田山を結ぶJRの路線。この辺りは、終点にほど近いエリアである。
そして、時刻表通りに列車が来る。キハ40系列のエンジン音は、遠くからでもよく響いてくる。
列車を撮影すると、進行方向前寄り(画像右)の車両が見慣れないカラーリングであることに気が付く。これは観光列車「うみやまむすび」用の車両のようだ。「天空の城竹田城跡号」をリニューアルして誕生したようだ。観光列車にとっては、今は苦しい時期だろう。外部から人を呼び込むことが憚られるような中では、そもそも知名度が上がらない。知らない列車にわざわざ乗りに行こうとは思い得ないのだから。
そして、これはマニアックな話になるので(既にそこそこマニアックだが)、鉄道に関して知識も興味も無い方はスルーしていただいて構わないが、進行方向後ろ寄り(画像左)の車両はキハ41形、両運転台化改造車である。元々両運転台のキハ40形はドアが片開きであるから、容易に見分けがつく。一時期青春18きっぷのポスターに登場して話題となった車両だ。
最後は竹田の風景と絡めて写真に。
考えてみれば、雲海が見えた場合には地上の様子は見えない。すなわち、これは「失敗したからこそ」の作品である。それはそれで、価値があるのかもしれない。
我々は山を下りた。駐車場までは、明るくなった登山道を周りに気を向ける余裕のある程度で下りて行った。そして、登山道を終える。しかし、駐車場から先の下り坂はふつう徒歩で通るものではないようで、膝への負担が尋常ではない。県道に出てからも終わらない下り坂。結局膝を酷使しながら、竹田駅に帰ってきた。朝の時間帯ということで、播但線の非電化区間でも1時間に1本程度が運行されている。我々は和田山行きの列車に乗り、和田山乗り換えで福知山に到着する。ここで、1時間の乗り換え待ち。
ただ、我々は疲弊していた。乗り換え待ちを1時間したうえで、ここから二条駅まで2時間の列車旅。もう早く帰りたい。
駅の発車標には「きのさき号京都行き」の案内が出ていた。全会一致で1人990円の自由席特急券を購入し、特急で帰る。これで、1時間も早く着く。
乗ってすぐ、私は眠りについた。気づけば降車駅である二条。速い。特急は偉大だ。
二条駅に無事帰着した。
これにて立雲峡訪問記は完結。しかし結果的に雲海は見られなかったので、来年のシーズンにはリベンジしたい。雲海シーズンは例年9月下旬から11月下旬頃。前日との寒暖差が大きく、晴れていて風のない日が狙い目だそうだ。見られる可能性の高い日には早朝から多くの車が集うそうなので、車での訪問には十分な余裕を持ってほしい。
著者:さくら川(Twitter:@396gw)